30年以上前の書籍から思うこと

pdp10s

IT革命の序曲はここからはじまった

最近iPadでTwitter上を流し読みしていたら、「著者:田原総一朗氏 マイコン・ウォーズ (立ち読み版)」というツィートがあり、何気なくそのサイトに行くと この書籍「マイコン・ウォーズ」さわりの第1章が無料で仮読みできました。この本の概要から少し興味を持ち、何気なく開いてみました。この辺iPadは気楽に閲覧できる機器で、電子書籍にはいいツールです。

概要 (引用)

この本はPC-6001、PC-8801、PASOPIA、HC-20等、数々のパソコン(マイコン)が生まれた1981年、パソコン元年と言われる年に書かれました。これ以降パソコン(マイコン)は一気にその存在を拡げ、形を変えながら留まるところを知らない勢いで発展していきます。18歳にしてすでに実業家であり、第一次マイコンブームの影の司祭となったビル・ゲイツと、1981年時点ですでに現在のコンピュータネットワーク社会を予言していた西和彦の出逢いから、業界の熾烈闘いまでを関係者の証言など緻密な取材により書き記されたこの書籍は、パソコンの歴史を知る上でもまさに現代人の必読の書です。 田原総一朗氏の待望の第四弾が発刊されました。 最初の一行からその世界に引き込まれ、終わりまで読まずにはいられません。

さて 軽い気持ちで読み始めたわけですが、 西和彦やビル・ゲイツがでてきてから興味が増し、一気に無料部分を読み上げてしまいました。 立ち読みの無料ドキュメントは、 「 一攫千金を狙う若者たち(前)」 と 「 一攫千金を狙う若者たち(後) 」 最初のさわりで、第1章になります。

何が私の興味を注いだかというと、私の知らない 西和彦やビル・ゲイツの生い立ち・出来事 が書かれていたからで、この本が出版された年 1981年時点での彼らが紹介されていました。私がコンピュータを始めたのが確か1986年で、パソコンブームの前哨とはいえ、その時すでに アスキー創設者・マイクロソフト副社長の西和彦 マイクロソフトのビル・ゲイツは有名な存在であったわけです。今考えると日本ではNEC98シリーズでのパソコン・ブームとWindows95でのパソコン・ブームの2つがあったと個人的には思います。しかしこの本は、このブーム以前にコンピュータ社会の到来を予言し、ベンチャー精神のスタートを記録しています。

この本を通じて「30年前のコンピュータ事情がどうであったか」思い起こすいい機会になりました。

ここから私なりの認識で知っている2人の事を書きます。(間違って記憶してるのもあると思いますけど、それは許してください。)

お金持ちの自由人

西和彦

1976年 マイコン雑誌「I/O」を創刊。 日本初のマイコン専門雑誌。 当時、西は大学生だった。

1977年 アスキーを創設(創設者の1人)。パソコン雑誌『月刊アスキー』の創刊した会社で、いろんなIT事業を展開し「日本のベンチャー企業」のさきがけだった。確かまだ OCN や SO-NETなどの現在主流となるISP(インターネット サービス プロバイダー)が存在していない段階から、個人ユーザーに対してインターネット接続サービスを提供していた。私も電話線からのアナログ・モデム接続でアスキーと契約契約していた時期があった。その後90年代、株式会社アスキーは苦しい事業展開だったようで、CSKなどの支援を受けながら最終的には出版事業のみに縮小し、2002年頃に角川書店グループ傘下になった。西は90年代でアスキーを離れていると思う。

1978年 マイクロソフト 極東担当副社長。 1980年にIBMが世に出したパソコン( IBM PC )に載せるOS開発のオファーがマイクロソフトにあった時、西は「IBMと契約するよう」積極的にビル・ゲイツに助言したらしい。 西は、当時日本でのマイコン・パソコンのトップであるNECに対して、マイクロソフトのBASIC(プログラム言語ソフト)やMS-DOS(マイクロソフトの開発したオペレーティング・システム・ソフト)を売り込んだ張本人だと聞いている。その後80年半ば位にマイクロソフトは退社している。

つまり西和彦は、20代前半の若いときにコンピュータ分野(パソコン)を開化させた一人であり、日本へパソコンを普及させた功労者の人物でもある。

はったり感性の持ち主。でも行動力もあり。

ビル・ゲイツ

いわずと知れたマイクロソフトの創設者である。ビル・ゲイツやマイクロソフトのことは、いろんなところで語られてますので省きますが、私の印象に残る逸話をいくつか。

ゲイツは中学生の時、はじめて自分で開発したプログラムを売ったそうで、つまりは中学生の時から商売をはじめたそうだ。この時のプログラムを買ってくれたのは学校の先生であったそうだ。ゲイツが中学生の当時は、今のように個人個人がコンピュータを持てる時代でなく(非常に高額だったため)、学校と契約している「コンピュータ タイム シェアリング サービス」を使ってプログラミングしていたそうだ。

このアクセスしていたコンピュータは「DEC PDP-10」というもので、同じDEC社の販売していた「DEC PDP-11」に並んでアメリカの大学や研究機関で導入されていたようである。ちなみに当時DEC社はコンピュータ業界の中で一世を風靡していた会社で、PDPシリーズの「PDP-7」「PDP-11/20」を動かすために、ベル研究所のケン・トンプソン, デニス・リッチーがUNIXオペレーティングシステムを開発したのである。UNIXでゲームを動かしたかったらしい。

さて話を中学生のビル・ゲイツに戻すが、このときにコンピュータを通じて知り合った3歳年上のポール・アレンと共に、いろんなプログラムを開発してアルバイト感覚で販売していたそうで、ゲイツが高校生の時にはアレンとトラフォデータという会社をつくった。ゲイツとアレンは、学校と契約している「コンピュータ タイム シェアリング」を使いまくって、学校の予算を短期間で使い切ったらしく、コンピュータを使えない状況になり、そこでコンピュータにアクセスする費用を稼ぐアルバイトをはじめたそうである。

1973年 ビル・ゲイツ 17才の時、アレンと一緒にマイクロソフトを創業している。この後1975年、 「アルテア」という他のコンピュータに比べて格安のコンピュータ(ミニコン)が販売された。この「アルテア」に注目したゲイツとアレンは、「アルテア」で動作するBASICを開発したら売れるのではないかと直感し、8週間寝ずにプログラムをつくったという。
そしてこの開発したBASICを「アルテア」販売メーカーのミッツ社(MITS)に売り込み、見事契約成立させたのである。これでマイクロソフトは一躍有名になったと言うわけである。

ここで補則をしたいのが「マイクロソフト立ち上げの時期」なのだが、アレンは「ミッツ社でソフトウェア担当の社員として契約している」のと「ゲイツと一緒にマイクロソフト社を創業している」時期が重なっているようだ。つまりこの「アルテア BASIC」を売り込んでいる最中に「契約・販売の可能性がある」とふんで、マイクロソフトを立ち上げたのではないだろうか?
私はコンピュータ雑誌などで記憶している程度なのではっきりしていないが、ビル・ゲイツ伝記もの書籍では、このあたり書かれているのではないかと思う。

初めての個人をターゲットにしたパソコン これが Altair8800 !!

ミッツ社の販売した「アルテア」正式には、 Altair8800 という名称で、パーツ販売の「組み立てキット $400程度」と完成品ミニコン販売の「組立済み $500」とうスタイルで当時破格で販売スタートされた。一般的には「組み立てキット」が主流らしく、電子機器工作が不得意の人は失敗していたらしくクレームなどのトラブルが多くあったという。 Altair8800の初期プロセッサは、インテル社(intel)8080であり、このヒットにより「現在のパソコン・サーバでの源流」であるインテル マイクロ・プロセッサのx86ファミリーへ続いていくことになった。

また「アルテア」は、モトローラ社のマイクロ・プロセッサ MC6800を採用したモデルも販売していて、アップル・コンピュータ(Apple)の試作品 Apple I はこの流れやアイディアを組んで、スティーブ・ジョブズとウォズニアックが開発をスタートさせている。

ポール・アレンもすごい人

さてこの「アルテア向けのBASIC」なんだが、おまけの逸話がある。完成したBASICプログラムをミッツ社に納品する飛行機の中で、アレンはこのBASICプログラムを起動するためのプログラム(ブート・ローダー)が無いことに気づいた。つまり納品するプログラムは起動できないということだ。

いまのご時世、プログラムの動作確認を行わず、バグ(不具合)をチェックせずに納品することは考えられないが、ゲイツとアレンは「DEC PDP-10」に「アルテア」をエミュレート(擬似的に稼働)させて開発したそうで、「アルテア」という代物を持たずに開発していたことになる。

さらにアレンはこの移動中の飛行機で、不足している起動プログラムを書いて完成させたそうだ。これもビックリだが、あらためて考えると、確かにプログラムはコンピュータに命令する言葉(言語)であるから、紙で記述して納品でもOKなんだよな。まあ今のデジタル時代じゃ許されないけどね。

テレビでみた逸話

もう一点、これはテレビでみたビル・ゲイツの話だが、初期マイクロソフトの社員である女性の話によると、このマイクロソフトという会社はなんだかわからず働いていたそうだ。その女性スタッフは電話番や社内の雑用で働いていたそうで、コンピュータとはなんだとか一切わからなかったらしい。

その女性スタッフがある朝、会社へ出社すると部屋中に紙が山の様に散らばっていた。女性スタッフは、片付けようとその「紙くず」を掃除していたら、その紙の山から一人の少年がでてきてビックリしたそうだ。その少年は紙の中で寝ていたのである。

少年は、片付けをしている女性スタッフにむかって「何をしているんだ!!それを捨てるな!!」と叫んだらしい。女性スタッフは、この子供が何を言ってるのかサッパリわからず、あれこれモメたらしい。

途中で他の社員が出社してくると、この少年が女性スタッフのボスであると告げられた。そう、この少年はビル・ゲイツでこの会社の社長であったのでさらにビックらこいたそうである。

そしてこのゴミだと思っていた紙こそが、プログラムなのである。この当時ビル・ゲイツは、毎日夜間に仕事をしていたみたいで、女性スタッフは自分の社長が誰なのか知らなかったそうである。

スパコン(京)をタイムシェアリングで使いたい!

さて「マイコン・ウォーズ」に話を戻すが、1981年に発行されていたこの本であるが、30年以上前の書籍であれこれ発見・気づくことが多々あった。しかも第1章という「立ち読み」部分だけなのに。

私の知らない逸話が何ヶ所かあったことだ。
アレンのブート・ローダーの件は、非常に面白かったし、自分もコンピュータ開発者の立場としてビックリだった。そして、ビル・ゲイツが「なぜこの当時 高額なコンピュータを長時間使用できたのか?」と疑問に思っていたことが解明できた。

現在、日本で最速なスーパーコンピュータ「京」という高速なコンピュータがある。(神戸にある)
昨年11月には世界トップの計算能力だったが、つい先日(6/18) アメリカのスパコンに首位の座を奪われた。

実は私自身かなりチープな思いつきで、このスパコン「京」を使ってみたいと思っていたのだが、「1時間程度つかうのでも高額な使用料金が発生するのでは?」と考えていた。どうやったらこのスパコンを「タイム シェア」でつかえるか妄想していたときに、ビル・ゲイツが少年だった頃のコンピュータもシェアリングだったと思い出した。
「では、ビル・ゲイツは当時高額だったコンピュータを何故つかえたのだろう?」と疑問に思っていたわけである。

しかし、この「マイコン・ウォーズ」に答えがあった。ビル・ゲイツとポール・アレンはコンピュータをつかいたい為に、そのコンピュータ「DEC PDP-10」のバグだしに協力していた訳である。それにより一時期、無料で自由に使えたようである。それと「タイム シェアリング コンピュータ」の使用料金を稼ぐ為に、プログラムを開発してアルバイトしてきたようである。

「じゃぁ 俺もスパコン(京)のバグだしをするか!」と思うのもつかの間、多分そんな仕事(アルバイト)させてくれないだろう。ましてや国をあげての国家事業だから不具合があることを認めないだろう。でも本当は多くの人につかってもらって、完成度をあげるのが一番なんだけどね。私のスパコン「京」を使いたい・動作させたいプログラムは、非常にチープなアイディア物で、ここでお話するのは恥ずかしい。なのであえて書きません。

デスクトップ・ノートブック パソコンとは違う道具 タブレット(iPad)

色々と長々書いてしまったこのブログ記事ですが最後に。

今までPC(パソコン)では読まなかった文献や書籍などが多くあったと思います。タブレット(iPad)を使い始めてからは、いろんなサイトや文献・記事などを読む量が増えた気がします。いや実際に多くなったはずです。私みたいな職業柄、普段コンピュータに多くの時間むかっていると、余暇の時間にわざわざパソコンをつかおうと思いません。しかしタブレット(iPad)は、素早く起動、そして停止(中断)できるのと、寝転んで読めたり、いろんな場所で軽く開くことができます。

これは完全な道具の一つで、パソコンやスマートフォンという分野とは別の代物ですね。こんなアイディア(道具)を世に生み出したスティーブ・ジョブスも1980年代 ビル・ゲイツや西和彦とともに、コンピュータのムーブメント起こした偉大な一人ですね。

長い話にお付き合いいただき、ありがとうございました。

マイコン・ウォーズ (立ち読み版) : 田原総一朗著
http://lite.twepub.jp/apoz28emlypp

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